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フランシス・マリオン (軍人) : ミニ英和和英辞書
フランシス・マリオン (軍人)[ひと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 
軍人 : [ぐんじん]
 【名詞】 1. military personnel 2. soldier 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

フランシス・マリオン (軍人) : ウィキペディア日本語版
フランシス・マリオン (軍人)[ひと]

フランシス・マリオン(Francis Marion, 1732年2月26日 - 1795年2月27日) は、アメリカ独立戦争中の大陸軍中佐であり、後にサウスカロライナ民兵の准将である。囮(おとり)戦術や伏兵戦術を駆使して敵を混乱させ、物資を奪い、捕虜を奪還するなどの能力に優れ、沼の狐と渾名された。彼の取り入れたゲリラ戦術は、その後の戦闘で開けた戦場での正面からの戦闘を減らしていく契機となった。独立戦争開始までは水夫だった。

近代ゲリラ戦の父とも見なされており、アメリカ陸軍レンジャーズ部隊の創設に功績があると考えられている。
== 家族および青年時代 ==
マリオンの先祖はユグノーであった。その先祖はサウスカロライナのジョージタウン近く、ウィンヨーに移住した。マリオンは、バークレー郡セントジェイムズ行政区にあるゲイフィールド農園で1732年の冬に生まれた。父はガブリエル・マリオン、母はエスター・コルデス・マリオンである。二人ともカロライナに移住した第一世代であった。父方の祖父がベンジャミン・マリオン、祖母がジュディス・バルエット・マリオン、母方の祖父はアンソニー・コルデス、祖母はエスター・バウレット・コルデスである。マリオンの兄弟は6人おり、上からエスター、イサック、ガブリエル、ベンジャミン、ジョブ、そしてフランシスだった。フランシスは末っ子であり弱々しい子供だった。独立戦争の間マリオンの部下であったピーター・ホリーが、冗談交じりにマリオンの子供の時のことを話している。
「信頼できる筋から聞いた話だが、この偉大な兵士は生まれたときニューイングランドロブスターよりちっぽけで、クオート(約1リットル)ポットに入るぐらいだったとよ」

マリオンが5歳か6歳の頃、一家はウィンヨー湾に近いセントジョージの農園に移った。これは、ジョージタウンの英語で教える学校に近かったからである。1759年、マリオンはセントジョンズ行政区のユートースプリングス近くにあるポンド・ブラフ農園に移った。マリオンはフランス語英語も堪能であった。
マリオンは15歳の時に船乗りになることを決めた。彼の想像力はジョージタウン港に泊まる船によって掻き立てられた。マリオンが両親にその許可を求めると、両親は喜んで認めてくれた。彼らはカリブ海への航海がマリオンの弱々しい体を鍛えてくれると期待していた。マリオンは西インド諸島へ向かうスクーナー船の6番目の乗組員として契約した。航海を終えての帰り道で鯨が船に衝突し、船腹の板を破ってしまった。船長と乗組員はボートに逃れたが、船が直ぐに沈没してしまったので、食料や水を移すことができなかった。5日間というもの彼らは熱帯の太陽に照り付けられた。6日目に乗組員の一人が渇きと日射病で死んだ。翌日なんとか岸に辿り着くことができた。

この厳しい海の試練にも拘わらず、マリオンはより健康になって帰ってきた。ピーター・ホリーがこのことについても書いている。
「彼の骨格が新しくなっているように見えた。彼は第二の成長期に入ったのだ。彼の頬から青白さが消え獣脂のような色になり、明るく健康なオリーブのようになった」

マリオンはこの危険な航海の後も船乗りを続けた。
マリオンは25歳の誕生日の少し前に軍隊に入った。1757年1月1日、兄のガブリエルと共に大尉ジョン・ポステルの下に配属され、フレンチ・インディアン戦争チェロキー族インディアンを境界地帯から追い出す作戦に従軍した。1761年マリオンは大尉ウィリアム・ムールトリーの下で中尉となり、再びチェロキー族対抗作戦に従軍した。ピーター・ホリーは、マリオンがこのイギリス軍の作戦行動を後悔の念で語っていたと書き記している。
「次の朝我々はジェイムズ・グラント大佐の命令で進軍し、インディアン住居を焼き払った。我々の部隊の何人かはこの残酷な仕事を楽しんでいるようで、小屋の頂部にかけてパチパチと大きな音を立て巻き上がる炎を見て心から笑っていた。しかし私には衝撃的な場面だった。可哀想な生き物達よ!我々はこんなに惨めな居住地にいるお前達を恨みに思う必要はないのだ。そして次の命令で成長しているとうもろこしを切り倒しに行った時、ほとんど涙を抑えることができなくなった。広い緑の葉を広げ、楽しげに房を垂らし、甘くミルクのような液と粉が詰まった命の糧、その堂々と立っている茎を眺めた者は、この神聖な植物が我々の刀でその尊い重荷とともに切り倒され、悲嘆の庭で食されることもなくしぼみ枯れていく様を欺瞞無くして見ることができるだろうか?」〔W. Gilmore Simms: ''The Life of Francis Marion ''〕


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランシス・マリオン (軍人)」の詳細全文を読む




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